山谷の位置

 泪橋交差点(明治通りと吉野通り)を中心に、台東区・荒川区にまたがって広
がる簡易宿所の密集地域。面積は約1.65K㎡。町名としての山谷は 昭和41
年に消滅しており、現在は「山谷」という地名は存在しません。泪橋(なみだば
し)は、江戸時代に小塚原の刑場で、処刑される罪人は振り返って涙を流したこ
とからその名が付けられたとされています。その後、当時の川は明治通りに姿を
変えて労働者の集まる街が形成されました。

以前の泪橋交差点
以前の泪橋交差点
現在の泪橋交差点
現在の泪橋交差点

☆最近ではではビジネスマンや外国人旅行者向けの高層宿泊施設が開業するな
ど、泪橋交差点を中心とした山谷地域は大きく変貌を遂げつつあります。

山谷の歴史

 太平洋戦争後、戦災により焼け野原となった都内には被災者が溢れ、とりわけ
上野周辺に集中しました。治安への影響を重視したGHQ(進駐軍)当局は、東
京都に被災者の援護を要請し、山谷地域などに仮の宿泊施設(テント村)を設
置、山谷地区旅館組合への委託を行いました。テント村はまもな く本建築の簡易
宿所へと変わり、日本経済の復興により労働需要も増加しま した。

山谷の歴史(当時の簡易宿所)
簡易宿所の入口(昭和25年頃)

 昭和30年代には、日本経済の高度成長に伴って、土木・建築作業や港湾荷役
作業における労働需要が高まり、山谷地域は全国有数の「寄せ場」(日雇労働市
場)に成長しました。昭和39年の東京オリンピック開催に向けて進められた都
市基盤の建設・整備は、山谷地域の日雇労働者の力なくしてはあり得ませんでし
た。

☆昭和38年10月には、222軒の簡易宿所に約15,000人が宿泊してい
ました。

山谷の歴史(寄せ場の様子)
センター1階 寄せ場の様子

 しかしドルショック(昭和46年)および第一次石油危機(昭和48年)の影
響で日本経済が動揺すると、労働需要は減少し、その後の第二次石油危機(昭和
54年)を経て低成長時代を迎えることとなりました。
 昭和60年代には「バブル経済」の下、首都圏を中心に土地取引およびビル建
設が活発化し、これにより土木・建設作業における労働需要が急増して人手不足
の状況が発生しました。
 しかし建築産業の機械化・省力化の進展と長引く不況によって、労働需要は激
減しています。また労働者の高齢化が進んでいることもあって、就労をはじめと
する生活環境は極めて厳しくなっており、簡易宿所に宿泊している日雇労働者も
減少を続けています。

☆平成18年12月には、166軒の簡易宿所に約5,000人弱(ピーク時の
3分の1)が宿泊していました。

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