昭和40年に発足した「山谷労働センター」は平成7年11月に30周年を迎え、「30年のあゆみ」という記念誌を発行しました。ここでは記念誌に掲載した写真の一部を紹介します。

昭和35年8月1日 交番前に集まった群衆

交番前に集まった群衆

 「山谷」が全国的に認識されるようになったのは、昭和35年8月1日の暴動から
である。その夜8時から翌朝にかけて、ドヤの番頭と宿泊者のケンカに対する処
置をめぐって、約400人が7月にできたばかりのマンモス交番をおそい、投石暴行
により17人が検挙され、66人が負傷した。

 さらに8月3日から8日にかけて、酔っぱらいの取扱を巡って、延6,000人がマン
モス交番に押し掛け、投石暴行により23人が検挙され、19人の負傷者が発生し
た。

 こうした騒動は、社会問題として新聞などのマスコミに大々的に取り上げられ
ることになった。

 

昭和35~36年ごろの山谷通り

昭和35~36年ごろの山谷通り

開設当初
 昭和40年11月21日から窓口を開けて業務を開始した。このときには大阪に西成
労働福祉センターが設立されてはいたが、都内近辺で手本となるような機関はな
く、すべて手探りの状態で業務に当たらなければならなかった。当時はセンター
前の道路には手配師が大勢たむろしており、その間に労働者がいるという有様だ
った。だから相談に来る労働者は手配師のあいだをかきわけて、やっと窓口まで
たどり着くといったあん配で、そのためたいていの労働者は、窓口に来る途中で
手配師たちにつかまってしまい、相談事があっても来るにこれない状況であっ
た。

 手配師だけではない、労働者の数も今とは比較にならないほど大勢で、まさに
人であふれていた。そうした労働者を当て込んで、送迎用の車は朝早くから何百
台もやってきて、山谷地区の都電通り(今の山谷通り)や明治通りをぎっしり埋
めつくしていた。

 さて、当時の手配師たちにしてみれば、賃金の不払いや労災事故などを相談さ
れては困るものも多いので、労働センターのような機関があることは彼らにとっ
て都合の悪いことであり、労働センター自体が大多数の手配師から敵視された。
そうしたことから職員に対するかぜあたりは非常に強く、出勤のときも罵声を浴
びせる、こづくはしょっちゅうで、窓口でもいやみをいう、どなりちらす、はて
は職員の胸ぐらをつかんでくってかかるなど、いやがらせはつきなかった。あま
りのいやがらせに耐えきれず退職する職員もでてきた。

 翌年4月に寄場で長机を並べて相談業務を始めると、労働者、手配師と入り乱
れて一度にわつとなだれ込んでくるようになった。一人一人親身になって相談し
ようとしても、わきから手配師やひやかしの酔っぱらいが口をはさんでくる、そ
こから小競り合いとなり、そのあげく労働者同士の殴り合いが始まるなどしてど
うしようもなかった。しかもそれが毎日続いた。まさに戦場の最前線で戦ってい
るようだった。

昭和25年当時山谷通りにあった簡易宿所

昭和25年ころの簡易宿所(ほていや)

第2次大戦後における山谷ドヤ街の形成
 昭和20年3月10日の東京大空襲でドヤ街はすべて灰じんに帰し、間もなく敗戦
となった。当時は物資が著しく欠乏し、資材の不足で再建はきわめて困難であっ
たが、地方などから資材を調達するなどして、3畳1間形式の旅人宿が1軒、2軒
と建ち始め、昭和25年ころには、これが30~40軒ほどになった。

 一方、当時、住む家もなく、浮浪者同様の生活を余儀なくおくる労働者が多かっ
たが、そうした労働者用の簡易宿泊所を再建しようと、旅館主たちによって建築
資材の払い下げが東京都に誓願されていた。立川の旧陸軍の施設が払い下げられ
たが、それを宿泊所の建設に活用することはむずかしかった。その為払い下げら
れたのが旧軍隊のテント、ベッドであった。

 そのころ、上野駅の周辺には、地下道をねぐらとする戦災者、浮浪者、孤児、
引揚者であふれ、占領軍の要請もあって、都ではその対策に苦慮していた。その
為、各地に収容施設をつくってはこれらの住宅困窮者を収容していたが、山谷の
旅館主たちの要請に応じ、テント、ベッドを払い下げるかわりに、その敷地を利
用してその収容方を依頼した。こうしてテントによるドヤが生まれ、5~10円の
整理費をとって、上野などの住宅困窮者が迎え入れられることとなった。1張10
畳ほどの広さのテントに、中央を通路にして8~10人が収容されるが、こうした
テントが2~3張から10張ぐらいの規模のドヤが10カ所ほど形成され、数百人が宿
泊するようになった。

大部屋式の簡易宿所の内部(昭和35年頃)

 
大部屋式の簡易宿所内部

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 このテントの宿泊者たちは、モク拾い、靴みがき、進駐軍荷役などさまざまの
職をみつけて収入の道を得ていた。この払い下げテントによって生まれたドヤ
は、はじめは床も土のままであったが、一年もたつと雨や風のもれもひどくな
り、冬の大雪でつぶれるものもあった。そのため、柱をたて、ブラック・ペーパ
ーを貼った屋根で補強したり、まわりを板で囲み、床に板やむしろが敷かれるよ
うになった。こうして補強してもいたみがはげしくなり、建てなおしが必要とな
ってきたが、本建築をすればドヤ代を大幅に値上げしなければならず、そこで考
えだされたのが蚕棚式のベッドハウスであった。6畳の両側にそれぞれ、2段式の
ベッドを2組つくれば、8人を宿泊させることができるので、テントのドヤより、
いくらか高い宿泊費をとれば、個室の場合と、ほぼ同じ収入があげられるという
わけである。

 こうして、山谷の「テント村」は次第に消え、昭和27~28年ころには、ほとん
どがベッドハウス、あるいは大部屋式、個室式などの本建築のドヤ街へと変わっ
ていった。

明治末期の山谷通り

 
明治末期の山谷通り

戦前
 山谷地域は、すでに江戸時代に奥州浜街道と日光街道の江戸の入り口として、
宿場町的な形態で発達してきた。明治以後は木賃宿街として、旅行者、行商人、
車夫、土方、遊芸人などが多く住む街として発展してきたが、大正12年の関東大
震災で山谷はほとんど全焼し、一時木賃宿は壊滅状態となったがまもなく復興
し、その数は約100軒、約5,000人の日雇労働者が宿泊するようになり、街頭にお
ける雇用の取引が盛んになった。

 第2次世界大戦前の山谷は、木賃宿と下層労働者の街であった。大戦末期の昭
和19年ごろ、108軒の簡易宿泊所があったが、その3分の1は3畳に定員2名の旅人
宿で、地方から上京する行商や、芸人、その他の人にとっての一時の滞在地とな
っていた。他の3分の2が、日雇労働者たちの泊まる3畳に定員3人という宿泊所で
あった。このほか、大部屋式の宿泊所も3、4軒あり、労働者のほか、行商人や、
露天商人、職人などの居住者も多かった。都電(当時は市電)で芝浦の港湾荷役
や軍需工場などの作業に出るものが多く、当局の指示で、ドヤ居住の労働者
5,000人をもって「産業報国会」が結成させられた。

長期求人に紹介された労働者の輸送バス

労働者の輸送バス

付近住民からの苦情
 40年代前半は日払求人が好況だったせいもあり、センター前は毎日朝から労働
者でにぎわっていた。それに伴い、付近の住民からは以下のような苦情が殺到し
た。
 ア 早朝より往来する労働者運搬用自動車の騒音に対する苦情
 イ  拡声器使用による騒音の苦情
 ウ 風紀、衛生面に関する苦情
等から、センターの業務縮小、ないしは廃止を要求する抗議が持ち込まれるよう
になった。

 なにしろ送迎用自動車がセンター近辺に40~50台も毎日やってくる。その車が
朝5時から7~8時までひしめいている。その回りで労働者が奇声を発したり携帯
ラジオの音量を上げてきて、目に余る者がある。当然付近からの苦’情はくるが、
当時はこれといった改善策はなかなか見あたらなかった。

 またセンター前で堂々と賭博場を開くものがいた。ヤクザが絡んでいるケー
ス、労働者間で自然発生的に場がたつなどケースは様々だが、そのために真面目
で気の弱い労働者などは怖がってセンターに近づかなくなる、ということまであ
った。当然付近住民から風紀上良くないと苦情がきたが、センターの外のことで
あるのでそこまでは手が出せなかったというのが実情であった。

過激労働者による放火(S47.12.30)

過激労働者による放火

センター焼き打ち事件
 当時は12月~1月が仕事の端境期であり、求人数もその時期は格段に減少して
いた。昭和47年の9~10月には求人総数で40,000人近くあったものが、11月には
32,000人、12月には21,000人と求人数は減少していた。もっともこうした傾向は
昭和45年からのことで、例年通りの流れではあった。そのため11月16日には、公
共事業などの求人を最低一日200名くらい各職安から求人連絡してもらうよう都
労働局に要請するなど、求人開拓の努力はしていた。

 12月3日の午前7時頃には、就労者団体の扇動が始まり、暴徒化した労働者が紹
介窓口の外側下のベニヤ板を大破し事務所へ乱入し、大荒れの状況となってしま
ったが、2時間後には騒ぎはおさまった。翌日は都労働局から応援職員を派遣し
てもらい、早朝業務を何とかこなした。しかし暮れもいよいよ押し詰まって来る
と窓口を開けても求人がほとんど無い状況となってきた。

 12月30日の求人数は4名のみであった。午前6時25分頃から寄場で騒いでいた
労働者は、7時頃より「仕事をだせ」と罵声を浴びせるようになり、さらに一部
の労働者の扇動がより熾烈となった。窓口は騒然となり、一触即発の状況となっ
てしまった。

 午前8時25分頃、遂に労働者たち約70人が暴徒化し、事務所内に乱入、石油ス
トーブを蹴り倒し放火、紹介室・事務室が焼失した。乱入時、中にいた職員6人
は辛くも脱出し、幸いにも人身事故には至らなかったが、紹介室・事務室が焼か
れ、業務遂行が不可能な状態になってしまった。
 年末最後のこの騒動は、年の瀬の新聞記事・社会面をにぎわせることになっ
た。

焼き打ちの時のこと(当時の職員からの聞き書き)
 その日は朝から異様な雰囲気だった。年も押し詰まっているときで、ほとんど
の事業所は正月休みに入り、当日の求人は4名しかなかった。時期的に仕方のな
かったときでもあるが、活動家たちは「仕事を出せ!」とシュプレヒコールをあ
げ、労働者を盛んに扇動していた。シュプレヒコールは次第に罵声へとかわり、
寄場は騒然となり、緊張の度合いも増してきた。警察もそのとき険悪な雰囲気を
察して、朝から事務室に詰めて、外に向けて無線で連絡を取っていた。

 あまりの怒号に加え、新聞紙に火をつけ紹介室に投げ込んだために、たまらず
窓口のシャッターを閉めたところ、労働者たち約100人が暴徒化し、寄場窓口の
ドアをたたき壊し、事務室に乱入してきた。そのとき職員は6人いたが、乱入さ
れるやいなや職員全員、事務室の出入口から地下の宿直室に逃げ出した(当時地
下1階は宿直室)。すでに煙が立ち上っており、地下に逃げれば煙に巻かれずにす
むと思ったからである。

 ところが案に相違して煙は次第に地下に降りてきた。これは危ないと、すでに
煙の巻いている改段を、口に手をあてて急いで上に向かって全員で駆け上がっ
た。外に出たくても暴徒化した労働者たちがひしめいており、何をされるかわか
らなかったので外には出られなかった。やっとの思いで3階まで上っていった
が、そこもすでに煙に巻かれていた。苦しかったので、のたうち回りながら、城
北福祉センターの入り口の鍵を開けて入り、外側の窓を開け空気を何とか吸い込
むことができた。外を見ると、やっと消防車がやってきて、消火活動にあたり始
めていた。それを見て、かろうじて助かった、と思った。ふと気がつくと、一緒
に逃げてきた職員の-人が煙を吸いすぎたために、3階に来たところで私の後で
床にうつぶせになり倒れていたが、他の職員と力を合わせ、彼を窓まで引っ張っ
て急いで空気を吸わせた。

 事務室には重要書類などもあったが、とにかく逃げるのが精一杯で、何かを運
ぶ余裕などなかった。怖かった。とにかく怖かった。本当に死ぬのでないかと思
った。事実一歩間違えれば、煙に巻かれる、暴徒に捕まるなどして大怪我をして
いたかも知れなかった。センター入所以来、あのときより怖い思いをしたことは
後にも先にもない。

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