昭和40年に発足した「東京都城北福祉センター」は平成7年11月に30周年を迎え、「30年のあゆみ」という記念誌を発行しました。ここでは記念誌に掲載した写真の一部を紹介します。

授産室

授産室

 授産室は、昭和37年(1962)6月、山谷福祉センターの開設に伴って設置され
た。城北福祉センターの開設により、定員が20名から45名に増員されるなど、事
業を拡大した。しかし、パートタイマーの仕事の増加や、都営住宅への転居など
により、利用者が減少し昭和61年3月31日で廃止された。

106頁  【授産事業と私の思い出】
 私は、民生局の北部授産の指導員として働いていました。ある日、上司から荒
川区に新たに開設された山谷福祉センターで授産事業を開始する話があった。そ
れは、「授産の対象者は、山谷地域の簡易アパートや簡易宿所(通称ドヤ)に居
住する人達で、利用定数は15名位で、指導員は2名体制で、大変でしょうが、反
面やりがいのある職場です。転勤をしていただけませんか」と言うことでした。
私は、即答できず「一晩考えさせてください」と言って、家に帰り考えて、転勤
することを決めました。

 山谷福祉センターへ転勤しました。利用者の方々と仕事を始めましたが、単純
に仕事の指導と言うだけでなく、利用者の多くが、その日暮らしの生活を長年に
渡って続けているため、日払いの賃金を一夜にして使い果たすこと、乳幼児を連
れて通ってくる人等もあり、指導員が乳幼児を背負っての指導や、生活面での金
銭管理や、夫婦喧嘩の仲裁、更に売春問題を起こす人への対応を含んだものでし
た。これらの問題への対応は、あるときは婦人相談員との連携により日夜にわた

る指導により問題解決に当たった思い出がありました。

 昭和40年(1965)年11月に城北福祉センターが開設されるにあたり、授産事
業 は4階に移転するとともに、利用者定数も大幅に増え、職場環境も良くなり、
そ れに併せるように今までの苦労が実ったのか?、利用者の人達の仕事振り、
生活 面でのトラブル等も減少していきました。

 このことは、私にとって大変良い経験になりました。現在は、この経験を参考
として、山谷マックで働いております。 W.T.(昭和40~54年度 福祉課福利係
在籍)

託児室①

託児室1

 託児室は、授産室で働く女性達の乳幼児を預かって、安心して仕事が出来るよ
うにということから、授産室開設から2ヶ月遅れの昭和37年8月に開設された。
しかし、世帯を中心に都営住宅などへの転居が進むことにより徐々に児童数も減
少していき、昭和59年3月31日に廃止された。

託児室②

託児室2

P108 〔託児室事業の思い出〕
 昭和42年4月、東京都に就職すると、城北福祉センターに配属された。新入職
員の私にとって、山谷は思い出の深い職場です。

 昭和42年前後は、世間は騒然としており、釜ケ崎に始まった日雇労働者の暴動
は頂点に達し、山谷にもその余波が及び、言い方を換えれば、活気のある時期で
した。

 当時、託児室は新館の2階で、相談室、貯蓄コーナー及び公益質屋に挟まれた
28.7坪程の一室で、25名程の1歳から6歳までの授産室で働く母親の子供達を、3
名の保母で保育していました。
 子供達は、毎日お弁当を持参し、中には、ご飯に振りかけだけや、おにぎり1
個という子供もいました。

 一歩、室外(廊下)に出ると、日雇労働者のおじさん達が、思い思いの姿勢で
たむろしており、そこをかき分けて子供達をトイレへ連れていくという毎日でし
た。

 とりわけ印象に残っているのは、日雇労働者の間で流行していた「ベスタ」で
す。「ベスタ」は、喘息の発作を抑える注射薬で、4~5本まとめて打つと、覚醒
剤 のように身体の疲れが取れるというので、トイレに注射器が数本転がってお
り、 それをまたいで子供達と用便を足したのを覚えています。

 帰宅時間ともなれば、山谷の町は、仕事から帰った日雇労働者であふれかえ
り、道端にはおでん屋さんが立ち並び、そこで売春も行われていたと聞かされま
した。

 子供達も母親に手を引かれ、そんな夜の町へ消えていく後ろ姿を見送って、逞
しく育ってくれるように、祈らずにはいられませんでした。
I.H.(昭和44~58年度福祉課福利係在籍)

児童室・学童保育室

児童室・学童保育室

P108 児童厚生事業
(1)児童室・学童保育室事業
 児童室事業は、山谷地域において日中から日雇労働者が路上で飲酒していると
いったような環境の中で子供たちが遊ばざるを得ないという状況から、山谷福祉
センターの開設時に、学習の場、遊びの場の提供と児童福祉の推進を目的として
実施することとなった。開設された児童室には指導員2名を配置し、勉強部屋の
提供や学習指導、生活指導、テレビ・ラジオ・ステレオなど視聴覚的方法による
指導、図書の貸出し、余暇活用指導などを行い、児童に対する福祉の増進を図っ
た。

 センターの開設に伴い、従来1室だった児童学習室を、児童学習室、児童図書
室、児童娯楽室の 3室に拡充した。児童学習室には勉強部屋が提供され、学習指
導を行うと共に、テレビ、映画等による視聴覚教育が行われた。児童図書室には
図書が備えられ、子供達が自由に読書できる場として活用された。また、児童娯
楽室には卓球台が備えられて子供達の練習場となり、この練習の成果を 発揮す
る場として、卓球大会が開催された。

 学童保育室は、センターの開設後、昭和45年(1970)4月に開設した。共稼
ぎ、あるいは病気等で保護者から適切な介護を受けられない小学校1・2年児を対
象とし、登録制による保育を行った。学童保育室開設後は、福祉指導員2名と保
母1名の3人体制で、子供達の下校後の宿題の手助け、補習及び遊び等の指導を行
い、午後3時になるとおやつを提供し、午後5時に母親が迎えに来るまでの学童保
育を行った。

 児童室事業が開始された昭和40年代から既に児童の数は減少傾向にあったが、
50年代に入ると減少傾向が一層顕著となり、59年3月31日をもって、託児室の廃
止とともに児童室・学童保育室も廃止された。

みどりの鼓笛隊①

みどりの鼓笛隊1

 児童室に集まる子供たちを対象として、彼らの活動の場を与え、健全な育成を
図ることを目的として、昭和40年(1965)7月にクラブ活動として「みどりの鼓
笛隊」が結成された。クラブ結成と同時に全日本鼓笛バンド連盟に加盟するなど
活動も本格的で、地域の小学校を通じて集まった60名ほどの子供たちは、毎週2
回、水曜日と土曜日にセンター内の図書室や屋上で熱心に練習した。楽器は笛、
太鼓、シンバル、指揮棒などすべて浅草ライオンズクラブから寄贈され、近隣の
台東区立田中小学校及び荒川区立第四瑞光小学校も鼓笛隊の活動を支援した。

 初めは楽器など手にしたことのない子供たちだったが、そうした周囲の協力、
援助や全日本鼓笛バンド連盟事務局長の新宅安二氏(後掲「みどりの鼓笛隊の
歌」の作詩者)らの献身的な指導などにより、結成5か月後の「クリスマス子供
のつどい」では、「若い力」「春の小川」などの演奏を披露するまでに上達し
た。

 その他練習の成果を発揮する機会として、年に何回か街中や公園をパレードし
て歩いた。特に秋には大東京祭り、銀座祭り、体育の日、文化の日の式典などた
くさんの行事に参加して可憐な演奏を披露した。

 活発な活動を続けていたみどりの鼓笛隊だったが、昭和50年以降山谷地域に家
族連れの労働者が減りつづけると、次第に鼓笛隊の隊員の中から山谷の子どもが
少なくなり、荒川区を中心に各地域から集まってくるようになった。そして、山
谷地域の子どもは一人もいなくなってしまった。こうした理由から、59年4月1
日にみどりの鼓笛隊は東京都から荒川区へ移管され、その「移杖式」が同年3月
28日、荒川区役所のロビーで行われた。こうして形を変えたみどりの鼓笛隊は、
現在も30名~40名の子どもたちにより活動が続けられ、主に荒川区主催の行事な
どで演奏を行っている。

※平成16年11月 荒川区教育委員会にお聞きしたところ、平成9年に地域のお祭
りでパレードを行った後のみどりの鼓笛隊の活動は把握していないとのことでし
た。また、みどりの鼓笛隊を支援してくれた荒川区立第四瑞光小学校は平成4年
に休校になりました。

みどりの鼓笛隊②

みどりの鼓笛隊2

P111 【みどりの鼓笛隊の思い出】
 酔っぱらいが寝ころぶ道を、子どもたちはスキップで通る。そこに家があるの
だから、幸も不幸もあったもんじゃないし、子どもは目の前がすべて、とにかく
前に向かって屈託なく生き生きしていた。町で出会うと「あそこだよ!」と元気
に家を指さす。パーマ屋だったり、酒屋だったり。ドヤの場合は経営者や従業員
の子だった。今振り返って、不思議にどこの子どもたちより澄んでいた。この町
でかっこつけてもしょうがないし。

 毎週土曜の午後卓球台をたたみ、椅子と譜面台を並べ、楽器を点検し終わる
頃、輝いた声が聞こえてくる。ひと頃は70~80人に達した。特に音楽の指導者で
ない私だが、音楽は学校のものではなく、放課後の遊び場「児童室」に相応しい
と考えるようになった。手製の教則本を本館で怒られながら大量に刷り、それを
保護者の一人が製本してくれた。みんな生活がみえる所に住み、何かにつけて協
力してくれた。本館と違う別の住民とのチャンネルだった。パレードがつきもの
の華やかな鼓笛隊が、あの場所に合っていたのかも知れない。思い出を開くと限
りない7年だった。

 養護施設で働く私は、今年の3月、就職児童のアパート探しの帰り、その子を
乗せ12年ぶりの山谷をドライブした。町の多くは変わっていなかったし、旧管理
棟はそのまま。だが、時間の経過は今の私に、他の人と同じようにこの町を殺風
景に見させた。
N.G.(昭和52~58年度 福祉課在籍)

このページに関するお問い合わせ先

公益財団法人東京都福祉保健財団 城北労働・福祉センター 
tel: 03-3874-8089 fax: 03-3871-2460